何がかかったのか、彼には理解できなかった。
 何か生ぬるい、どろっとしているものが頭から降りかかった。
 目の前の光景とあわせれば簡単に分かったはずなのに、彼の脳はもはや考える
だけの力を失ってしまっていた。
 それならば、においがわかれば分かっただろうか。
 彼にかかった、彼にも流れている、真っ赤な血。
 だが、それもどうでもいい話だった。彼の鼻はすでに血のにおいを捉えている
。ずっと捉え続けて慣れてしまうくらいに。慣れて嗅いでいるのかどうか分から
なくなるくらいに。
 それが、誰の血かは分からないだけの話だった。
 ほろ酔いで帰ってきた父の血か。
 晩御飯に文句を言ってけんかになった母の血か。
 いつものように散歩を共に楽しんだ飼い犬の血か。
 ――目の前で腹を縦に裂かれ、内側からバリバリと奇妙なもので食い破られる
、兄の血か。
 血は、血だ。
 そんな考えが浮かんだ。
 悲鳴で焼きついた喉からもれるのはかすかな息。
 兄がゆっくりと食いつぶされていく光景を見ながら、彼は思う。
(何なんだろう、これは――)
 今更の考え。
 頭の中ではがんがんとわめきたてる自分がいるというのに。逃げろと。走れと

 だが体は動かない手も足も焼きついたように痺れて動かない凍りついたように
張り付いて動かない!
 意思が心が精神が脳が自分のすべての思考が逃げろと命じているのに。
 魅入られたかのように、彼はひたすら目の前の光景を眺めていた。
 そこに諦めはない。
 そこに絶望はない。
 ただ、何もなかった。
 やがて、兄のすべてが食いつぶされると、目の前のそいつはついに彼に目をつ
けてきた。
 決して交差しない視線。
(見られている……)
 それでも、彼には分かる。
 彼ももうすぐ、目の前のそいつに、兄と同じように――食われる。
「――――あ」
 つぶれたと思ったのどからこぼれた、悲鳴なのか吐息なのか分からぬか細い空
気の流れ。
 しかし、それが彼自身の耳に届いたとき、
「っ。あぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!

 時間が、動き出した。
 走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る!!!
!!
 もはや後ろを気にする余裕などない。
 行き先を気にすることも出来ない。いや、する必要もなかった。
 どこでもいい。どこかへ逃げてしまわなくてはいけないのだから。だから、逃
げる先のことなどどうでもいい。
 だが、やはり行き先を気にする必要など彼にはないのだった。


 どうせ、逃げた先にも同じ光景があると。

 彼は、心のどこかでもう気づいていた。


 それに気づくか気づかないか。
 一瞬、彼の足が力を抜いたその瞬間に。
「っ!!?」
 わき腹に走る衝撃。同時に吐き気。
 黒い空と地面が縦横無尽に視界を蹂躙する。
 突き飛ばされたと気づいたのは、空を向いて彼の体が止まったときだった。
「ぐっ……!」
 すぐさま起き上がろうとした彼の体を、上からものすごい力で押さえつける何
者かがあった。その力で、彼はもはや動けなくなる。
「あ……ああぁ…………」
 もはや力も入らない。
 ゆっくりとそいつが顔を寄せてくる。
 彼は嫌悪を押さえつけて、そいつの顔を正面から睨み付けた。
「GRyuuuuuuuuuu……」
 2本の触覚。真っ赤な複眼。並ぶ牙。押さえつける足には小さな繊毛。
 彼の兄を食い殺し、彼を追い詰め、今彼を押さえつけているそれは。
 名前こそ分からぬものの、確かに。
 蟲。
 巨大な蟲だった。
 なぜこんな巨大な虫がいるのか、なぜ自分が襲われなければならないのか、何
も分からなかった。
 何も分からなかったが、一つ、たった今分かったことがあった。
「…………、……やる」
 その小さな言葉におびえるかのように、彼の体の上の蟲の動きがぴたりと止ま
る。
「…………て、……やる」
 それは怨嗟だった。それは呪詛だった。それは宣誓だった。それは意思だった

「お前ら全部、殺してやる――!!!」
 燃え滾る視線。もし、視線だけで相手を殺すことの出来る力があれば、彼は今
何者をも敵としないであろう。
「GR、OoooooUuuuuuuu!!!」
 おびえるかのように振り上げられた蟲の腕は、彼を軽くつぶせる大きさだった

「殺してやる――――!!!!!」
 涙を流しながら、悲しみと憎しみとを織り交ぜた遠吠えをあげた。

 彼の名を、浅葱眞人(あさつき まさと)という。





 バグバグ -Bug Bag-.01





 何が起こっているのか、自分の事なのによく分からなかった。
「え…………っと………………」
 目の前には真っ赤な顔をしてうつむいている女のこの姿。
 放課後。体育館裏。二人っきり。
 さすがにこれだけ露骨だと、人目で状況が分かるというものだ。
 これが他人事なら、の話だが。
(う……あああ…………)
 簡単な話、彼浅葱眞人は、クラスメイトの里永理里(さとなが りさと)に告
白を受けたのだ。
 そして、こんなこと生まれてはじめての眞人は、混乱で返事も出来ない状況に
陥ったわけである。
 ちなみに、それを物陰から見ている二人の人物がいた。
「あ〜もう、何やってんのよ眞人のやつ!」
「ったく、普段からなんだかんだうるせえ癖に、ここ一番でどもりやがって」
 方や眞人を叱責する少女。
 方や眞人に呆れる少年。
 共に眞人のクラスメイトで友人。速水慧(はやみ けい)と松岡裕介(まつお
か ゆうすけ)である。
「せっかくお膳立てしてあげたのに、アレじゃ理里がかわいそうだわ!」
「やっぱり俺のプランの方がよかったんでねーの?」
 今の言葉通り、理里の告白を計画したのは主にこの二人であった。
 露骨に態度に出ている理里とまったく気づく気配のない眞人を目の前で毎日眺
めている二人は、これは自分たちの精神衛生に非常によろしくないということで
、このたびの計画を理里にけしかけたのであった。
 もちろん、理里の気持ちも考慮に入れて、無理強いはしていない(が、誘導尋
問等で無理やりやる気にさせたりはしている)。
 彼らとしては、今後のためにもここできっちりと二人に付き合ってもらいたい
と思っていた(ここで眞人が断ることを全く考慮に入れていない辺り、彼らの性
格が覗える)。
 二人が見守る中、先に動いたのは理里だった。
「あの……駄目、ですか…………?」
 聞いておきながら断られる恐怖がその瞳にありありと浮かんでいる。
「あ! いや、その……」
 そんな理里の姿を見て、答えを返さなければと思うあまり、眞人の思考が更に
絡まっていく。
「あ、いや……じゃないっつーの! いい加減に腹決めなさいよね!!」
「ったく。あんなかわいい娘に告白されてんだからもっとしゃきっとしろよな…
…」
 ちなみに、彼らの会話はちょっと注意すれば眞人たちに聞こえるくらいのボリ
ュームである。
 しかし、眞人も理里も自分の事でいっぱいいっぱいであった。
「その、里永」
「あ、はい!!」
 緊張のあまり機敏というよりも処理落ちしたパソコンのようなカクカクとした
動作を見せる理里。
「俺は、誰かと付き合ったこともないし、その、そういうこともあまり考えたこ
となくて」
「……はい……」
「だから、その、そういうのってよくわかんない」
「………………」
 眞人の言葉が進むごとに、どんどん顔をうつむかせていく理里。
 そんな二人を見ていた慧と裕介はというと。
「〜〜〜!! 〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「落ち着けって。まだ結果は出てねーだろ」
 暴れる慧を裕介が押さえ込んでいた。
「でも、里永のことは嫌いじゃないし……その、さっき告白されたときもうれし
かったし」
「…………!!!」
 ばっ、と理里が顔を上げた。
 同時に、慧の動きもぴたりと止まり、二人の動向に意識を寄せる。
「だから、その…………」
 眞人は理里の顔を正面から見て、気持ちを落ち着かせるように深呼吸を一つす
ると。
「お、俺と付き合ってください!!」
 大きな声で、礼と共に先ほど理里から聞かされた言葉を言った。
「〜〜〜〜〜〜♪」
 慧は口を押さえつけられたまま小躍りし、
「ふぅ……やれやれ」
 裕介は慧を押さえつけたまま深く息を吐いた。
 一方、眞人はというと、礼をしたままの状態から顔を上げられずにいた。
 勢いでここまでやってしまったものの、一気に冷えた頭が、すでに自分がどれ
だけ恥ずかしいことを口走ったのかを理解してしまったのだ。
 そして同時に、自分と理里がどういう関係になったのかを理解し、その顔をま
ともに見れなくなったのである。
(うわ。俺って結構根性なかったんだ……)
 その姿勢を維持したまま、少しブルーはいる眞人だった。
 が。
「――。っく、う」
 嗚咽が。
「う……ううう……」
 理里の嗚咽が聞こえた瞬間、すぐさまその顔を上げた。
「お、おい、里永!? え、俺なんかまずったか!?」
 あわてる眞人に対し。
「いい加減にしなさぁぁぁぁああい!!!」
 ずごっ!!
 いい角度で頭に踵落としを叩き込まれた。
「ぐああぁぁぁぁ!!!」
 悶絶する眞人。
「あーもう、この甲斐性なし。ほら理里、よかったわね〜。ほら、もう大丈夫だ
から」
「ぐすっ。うん! 慧ちゃん。よかった、よかったよぉ……」
 わぁぁぁ、と。慧の胸でなき始めた。
「ま、よーするにだ」
 悶絶する眞人のすぐそばによってきた裕介は、地面の上で頭を抑える眞人にに
やりと笑みを浮かべる。
「理里は安心して泣き出したわけだ。分かった? 分かったかな、ボク〜?」
「お前ら……さては見てやがったな……」
「はっ。当然だろ。お前を呼び出したのはどこの誰だと思ってるんだ?」
「今判明したばっかりだよ!」
 ちなみに慧の考案したプランというのは、かなり悪質なものだった。
 普通に体育館裏に呼び出したところで、眞人がのこのことやってくるはずはな
いと踏んだ慧は、眞人に対して一週間の間、みっちりと嫌がらせを続けていたの
だ。もっとも、実行犯は裕介だったが。
 ともあれ、一週間正体不明の相手から嫌がらせを受け続けた眞人は、その犯人
からの果たし状(のようなもの)を受け取り、喜び勇んで体育館裏にやってきた
わけである。
 どのくらい勇んできたかというと、体育館に立てかけられた木刀がそのやる気
を物語っている。
 ちなみに、この嫌がらせ作戦は理里には内緒だった。言えば止めるから。
「お前な……この借りは返すからな……」
「んー? おいおい、そんな剣呑な顔すんなよ。誰のおかげで今日この日がある
と思ってるんだ?」
 それを言われて言葉に詰まる眞人。
 確かに裕介の言うとおり、彼らの嫌がらせがなくては眞人はここには来なかっ
ただろう。
 難しい顔のまま思案する眞人に対し、裕介はそばの女子二人に聞こえないよう
に顔を寄せてささやきかける。
「ちなみに俺のプランは、――を――してお前に――を――――させて――が―
―を――」
「いやもういい頼むやめてくれっていうか高2に何させる気だお前!?」
 すばやく起き上がって裕介にヘッドロックをかける。が、
「ほら、眞人! いつまでもじゃれてないでこっち来なさい!」
 慧に引っ張られ、無理やり理里と正面から向かい合わせられた。
「う――」
「あ――」
 途端、顔を真っ赤にして言葉を失う二人。
「あああもう! ほら、これで晴れて恋人同士なんだからいい加減にしなさい!
 っていうか、こっちの方が精神によくないじゃない!!」
 地団太を踏む慧。
 そんなうるさい外野はとりあえず意識から排除する眞人。
「え、と。こ、これからよろしくな、里永」
「あ、……うん!」



 浅葱眞人、高校2年生。17歳。
 里永理里、高校2年生。16歳。
 速水慧、高校2年生。17歳。
 松岡裕介、高校2年生。17歳。

 彼らの11月が、終わろうとしていた。
 そして、血塗れの冬が、すぐそこまで来ていた。

あとがき

 タイトルとか後半部分だけ見るとほのぼのかと思うような代物が完成しました。
 とりあえず、前半部分と後半部分のギャップがすごいなぁと。
 注文どおりにグログロな話になる予定です。
 ちなみに、後半部分は書いてて背中がかゆくなりました。というかノーパソぶ
ん投げたくなった。
 とにもかくにも、グログロでぐちゃぐちゃでどろどろな物語を今後展開してい
く予定です。
 いやなら言ってください。今ならまだ方向転換可能です。
 でも安心を。
 どれだけ酷いことになっても、とりあえずこの四人はハッピーエンドにするつ
もりです。あくまでもつもりです。ちなみに今考えてるのはこの上ないバッドエ
ンドです。どっちがいいですか?
 (もはやあとがきじゃねえな)